2011年04月17日

東日本大震災 その3・・・地震後の一週間

 4月14日から、福島第一原発から半径10km圏内での捜索が開始されたそうです。付近は、あの日のまま。テレビニュースで見た黒いランドセルと4頭の痩せた黒い牛たちの姿が目に浮かんできます。
 あの大地震の日から、ちょうど一ヶ月の4月11日の夜に大きな余震がありました。その2、3日前から大き目の余震が続いていましたが、もう大きな揺れは来ないのだろうか、と思っていたところに、11日の揺れが来て、再び落ち着かない気持ちになっています。あと数ヶ月は、用心して暮らしていかなければならないですね。

 
 3月11日は、とても寒い日でした。幸いなことにこのあたりは停電にならなかったので、それほど不自由な思いはありませんでした。ところが、翌日から水が止まりました。2、3日で済むだろうと軽く考えていたのに、水道が復旧するまで一週間もかかって、水が出るまでが待ちどおしかったです。我が家では、ご近所で地下水を分けてもらえたのでとても助かりました。給水車が支所に来たのですが、水をもらうのに何時間も並ぶなんて、私にはとうてい出来ない事です。実家のほうは、10日ほどかかり、父は水道局に何度も電話をしたらしいです。「おとうちゃん、苦情を言っても仕方ないのに。」と思いながら、息子たちを手伝いにやりました。父は足が悪くて動けないので、すべてが母の仕事になります。実家でもご近所から地下水をいただいていたのですが、車がないので何回も往復するのは大変な仕事でした。母は水道が使えるようになってから、疲れが出て何日か調子が悪かったそうです。
 断水に関しては、私はラジオを聴いていたので分かっていましたが、知らない人もたくさんいました。市の広報車のようなものもまわって来なくて、必要な情報は得られませんでした。
 実家の両親が水をいただいていたお宅の人は、父の昔の教え子さん(父は小学校の教師でした。)であることが分かり、人の縁の不思議さも感じました。人間、いつどこでだれと出会うか分からないので、人との出会いは大切にしておくといいですよ。
 地震の当日はお店にまだいろいろなものが売っていました。でも、物流がストップしたせいで、次第にものが無くなっていき、お一人様○個まで、なんて制限が出て、お店の棚は空っぽでした。食料品にしても、生活用品にしても、物流が復活すれば少しずつでも元に戻るのはわかっていても、目の前の棚に何も無いのを見てしまうと、気持ちの余裕がなくなって、なんとしても手に入れなくてはならない、という焦りが出てくるのでしょうね。それで、必要以上に買い込んでしまう。私は、列二並んでまで買い物をするのがいやだったので、出かけていっても何も買わないで帰ってきたこともありました。
 しかし、米とキャットフードが足りなくなりそうになったときは心配になりました。いつも買い物に行くスーパーにはお米がなくて、どうしようとあせりましたが、夫が生協で買ってきてくれたので助かりました。人の食料より心配だったのは、猫たちのフードでした。メリーはご飯でもパンでも麺類でも食べるので、いざとなれば何とかなるだろうと思いましたが、猫たちはキャットフードしか食べないので、「ガソリンがあるうちに探してこなくちゃ!」と何件か探し回って、いつもの3倍くらいの量を買ってきました。今思い直すと、どうしてもっと冷静に考えられなかったのだろう、と恥ずかしくなります。2週間後くらいに米が山積みになって売られているのを見たとき、10kg袋を二つも買ってしまいました。ガソリンや灯油、牛乳や肉・魚、大好きな甘いものすら買えるようになるまで待っていようと我慢できたのに、『米とキャットフード』に関しては、気を揉みました。


 昔、私が学生で仙台にいたとき、宮城県沖地震がありました。あの地震から33年になるのだなぁ、なんて思い出していたら、今度の大地震が起こりました。今思うと、3月9日の地震も3月10日の地震も3月11日の大地震の前触れ、余震だったのでしょうか。これからも大きな余震の恐れがあるらしいので、気は抜けません。毎日毎日小さな揺れが続いていますが、日常の生活ができていることは本当にありがたいことだと思っています。

 110209_1620041.jpg   0n Feb.9
 
 地震が起こった頃は、まだ白鳥たちは残っていました。でも、地震の後は周りを見る余裕もなく、気が付かないうちに暖かくなっていて、白鳥たちは北の国へ帰っていきました。私たちが自然の移り変わりに気が付かなくても、季節は間違いなく移り変っていくのですね。

ニックネーム happycats at 15:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする